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物語

木南 瑞希
「…………」
ふと耳に聞こえた雨の音に、
沈んでいた意識が浮かぶ。

ぼんやりと天井を見つめたまま
数度瞬きをすると、すぐ傍で誰かが
こちらに向かって身を乗り出す気配がした。
日向
「瑞希……! 目が覚めて……」
ゆっくりと声のした方へ目を向けると、
見知らぬ男の人が心配そうに私を見つめていた。
木南 瑞希
「……だれ……?」
日向
「……!」
尋ねてからふと気付いた。

……私、何も分からない。

この人の名前だけでなく、
今自分がいるこの場所のことも、
自分の名前すらも……分からない。

思い出そうとしてみるけれど、
霞がかかったように頭がぼんやりとしていて、
何も思い出せない。
深く息を吐くと、力が抜けて
少し身体が楽になった気がした。

午前中、大したことはしなかったのに、
とても疲れてしまっていたみたいだ。

部屋の中は穏やかな日の光に包まれていて、
仄かにあたたかい。

開け放たれたままの障子からは
たまにそよ風が吹き、優しく頬を撫でた。
木南 瑞希
「…………」
目を閉じてまどろんでいると、
どこからか微かに子どもたちの
はしゃいだ声が聞こえてくる。

屋敷の近くで遊んでいるのだろうか。

楽しそうに遊ぶ子どもたちの様子が
思い浮かび、思わず笑みをこぼす。

そっと目を開けると
葵くんを挟んだ向こう側で
東雲さんも私と同じように微笑んでいた。
木南 瑞希
「わ……!
すごい、羽に触ったら色が変わるの?」
木南 瑞希
「綺麗だね、旭」
思わずはしゃいで顔を上げると、
思ったよりも近くに旭の顔があった。


心臓が小さく音を立てる。
「……記憶があってもなくても、
お嬢様は、お嬢様のままです。
何も変わっていません」
「ですから、大丈夫です」
旭は私を見つめたまま、優しい声で言った。


……最近ここに越してくるまで、私はずっと
辰蔵さんと連絡が取れていなかったと
聞いていた。


それなら、辰蔵さんの式妖である旭とも、
こうして話すのは最近が初めてのはずだ。


それなのに……どうしてだろう。


旭の言葉はまるで、ずっと昔から
私のことを知っていたみたいに聞こえた。
木南 瑞希
「ありがとう……」

記憶をなくしてから、旭はずっと
私を気にかけて助けてくれている。


優しくて、旭と一緒にいるとほっとする。

けれど、同時にどこか掴めないところがある
不思議な人だとも思った。
東雲
「元気が出たみたいだな」
木南 瑞希
「え……」
東雲
「やはり娘さんは、笑った顔が一番だ!」
そう言って、東雲さんは
いつもの明るい笑顔を浮かべる。

……私が落ち込んでたこと、
気付いてたんだ。
木南 瑞希
「ありがとうございます……」
気恥ずかしいような、嬉しいような、
複雑な気持ちでお礼を言う。
木南 瑞希
「あの……東雲さんって、
悩みごととかできたりしないんですか?」
東雲
「む? 悩みごとならたくさんあるぞ!」
東雲
「どうやったら際限なく
美味いものを食べられるかとか、
昼寝に一番いい場所はどこだろうかとか」
東雲
「……とまあ、これは
娘さんの言う悩みごととは少し違うか」
苦笑しつつ、
東雲さんは考えるように目を閉じた。
東雲
「そうだな……。
そう聞くということは、娘さんには
何か悩みごとがあるのだな」
木南 瑞希
「……はい。
悩んでも、答えが出るような
ものではないんですけど……」
東雲
「そうか…………」
東雲さんは呟くように言うと、
そっと目を開ける。
東雲
「悩んでも仕方がないことに関しては、
あまり考えず、時に任せるのが一番だ」
東雲
「焦らずとも、大抵のことは
時が解決してくれる」
東雲
「ただ……一つだけ。
寂しいのや悲しいのは、よくない」
東雲
「悩んでそういう気持ちになったら、
一人で居ずに、誰かと一緒にいた方がよいな」
木南 瑞希
「誰かと……」
東雲
「ああ。娘さんが一緒にいて、
気持ちが楽になる誰かだ」
そう言うと、東雲さんは
満面の笑みを浮かべる。
日向
「俺には分かる。
……分かるんだ」
日向くんは、もどかしそうに、
懸命に私に言葉を伝えてくる。
……どうしてだろう。
日向くんは、まるで本当に桃の心が
分かっているかのようで。
その言葉の一つ一つが胸に染みて、
堪えきれず涙が溢れた。
とっさに俯くと、日向くんの両手が私の頬を包み、
顔を上げさせられる。
日向くんはぎこちなく、けれどとても優しく、
私の涙を拭ってくれる。
木南 瑞希
「やめて……っ」
聞きたいのは、そんな言葉ではない。
何の涙か分からないけれど、
瞳から溢れた涙が幾筋も頬を伝って落ちた。
旭は苦しそうに顔を歪めて、
目を閉じる。
「申し訳ありません、お嬢様」
……旭が自分を責める理由。
ずっと知りたいと思っていた。
でも、こんな話なら、
ずっと知らないままでいたかった……。
木南 瑞希
「せめて、わけを話して」
「……許されるような理由は、何もありません」
木南 瑞希
「…………」
今、何が起こっているのか。
頭の中が真っ白で、
状況が理解できない。
固まったまま、睫毛が触れ合いそうな
距離にある顔を見つめていると、
大きな手のひらが頬に触れた。
薄く開いていた唇の間を、
湿った何かが滑り込んできて……
口の中に冷たい液体が、
ゆっくりと流れ込んでくる。
木南 瑞希
「ん……っ」
反射的にそれを飲み込んで、
ようやく我に返った。
——水を、口移しされてる。
気付いた瞬間、火がついたように
身体が熱くなった。
木南 瑞希
「や……」
とっさに顔をそらして、
日向くんの身体を押し返そうとする。
けれど、朝から何も口にしていなかったせいか、
うまく腕に力が入らない。
日向くんは私の抵抗を簡単に抑え込むと、
さっきよりももっと強く私を引き寄せてきた。
押し付けるように唇を合わせて、
私の口を開かせる。
熱い舌とは対照的に、
口の中に広がっていく水は冷たくて、
なんだか眩暈がした。
木南 瑞希
「ん……っ……」
部屋の中は静まり返っていて、
互いの息遣いだけが、やけに響いて聞こえる。
それが余計に羞恥を煽って、
心臓の鼓動が激しくなった。
木南 瑞希
「あ、あの、東雲さん……?」
東雲
「……何か誓うときは、
こうするのが最近の流行りなのではなかったか?」
木南 瑞希
「そ、そんなこと、誰に聞いたんですか」
東雲
「テレビで見たのだ」
恋愛ドラマでも見たのだろうか。
頭に乗せられていた東雲さんの手が、
そっと私の髪を撫でる。
その手つきがあまりにも優しくて……
まるで恋人同士にでもなったような錯覚を
起こしそうになる。
木南 瑞希
「ふ、普通はこんなことしません」
東雲
「ははっ! そうか、それはすまぬな」
言いながらも、東雲さんは
なかなか離れようとしない。
どうしたんだろう……。
困惑して顔を上げようとすると、
止めるように頭を押さえられた。
東雲
「……ありがとう、娘さん」
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